長い順番待ちを経て、ようやくレスターをプレミアリーグ優勝に導いた旧知のクラウディオ・ラニエリのインタビューが実現した。
だが、私には優勝後のお決まりの儀礼的質問をするつもりはなかった。
たずねたかったのは、日本代表の岡崎慎司選手との関係だった。
奇跡の優勝を飾ったレスターの中で岡崎が果たした貢献は称賛に値すると思うからだ。
そして、もうひとつ、日本についての印象も聞いた。
―岡崎がチームに果たした貢献について。
「岡崎は、最高の選手というだけでなく、人間としても素晴らしい男です。
ロッカールームでいつも見せてくれた彼のあの冷静さには、私たち全員が感謝しなければいけない。
あの向こうっ気の強いアルゼンチン人、ウジョアとの交代を私はたびたび岡崎に告げましたが、
彼はいつでも笑顔で受け入れてくれた。私はこれまで、そんな経験をしたことがなかった。
しかし、常に走り続ける彼のプレーは、チームの勝利への切り札のひとつでした。
もちろん、ニューキャッスル戦で決めた、あのすばらしいオーバーヘッドゴールもそうですが」
―岡崎をご覧になっていて、日本のサッカー選手がヨーロッパのリーグで主役になるため、
準備することやアドバイスはありますか?
「まずアドバイスしておきたいのは、言葉ですね。実際、「オカ」に動きを説明しているとき、
彼は笑って「OK」と言うのですが、実は全然わかっていなくて、その動きを私がやってみせなければならないことが
よくありましたからね。言葉の習得はチームや自分が暮らす町に溶け込むうえでも役立つでしょう。
相手の言うことを理解し、自分の考えを伝えることは、サッカー選手に限らず、
国際的な舞台で活躍する人々のどんな活動においても、その重要性はますます高まっています」
1995年、フィオレンティーナを率いていたラニエリは、清水とG大阪と親善試合をするため来日した。
この試合をコーディネートしたのが私だった。
短い滞在期間だったがラニエリは、日本、そしてJリーグにとても興味を抱いた。
「Jリーグが始まったきっかけは?」「数年間に失敗した北米プロリーグと何が違う」。
そこで、私はラニエリを監督として迎え入れるJリーグのクラブを探したが、結局、彼が日本に来ることはなかった。
―来日翌年の1996年、あなたにとっては幸運なことに、私はあなたを起用するJリーグのチームを
見つけることができなかった。
今から思えば、もし見つけていれば、あなたの素晴らしいキャリアにつけ加えたくなるような経験になったのでは?
「あの頃のことはよく覚えていますが、私はまだ、移住する決意がついていませんでした。
フィオレンティーナはかなり好調でしたし、翌年、コッパ・イタリアでも優勝を果たしました。
さらにいえば、日本のJリーグはまだ今ほど安定しておらず、不安材料はたくさんありました。
けれども最大の理由は、自分はまだイタリアでいい仕事ができるという自信があったからです」
―レスターで書き上げたおとぎ話の後、日本チームの監督に就任する可能性は?
「もう少し、この途方もない勝利の余韻を味わわせてほしいですね。
まだ実感のわかないこの勝利については、あと数週間もしたら、もっと詳しくお話できるでしょう。
日本代表チームの監督ですか? オファーがあれば今度は本気で検討しますが、少なくとも2年は先の話ですね。
まずはチャンピオンズリーグを戦わせて欲しい。それに私もいい年ですから、
介護士を付けてまで日本で監督はしたくはない…。
いや、これは半分冗談ですが、いずれにしても、日本にはワールドカップの常連として
2018年ロシア大会での活躍を祈ります。過去にアジアカップを優勝するなど、
これほど短期間に素晴らしい躍進を遂げた日本サッカーについては、その成長ぶりを讃えたい。本当に素晴らしい」
ラニエリにとっても、レスターにとっても、レスター市にとっても、
ほどなく最も困難な課題が突きつけられることになるだろう。誰もが予想だにしなかったこの飛躍をどう維持していくのか?
スターチームのサッカーには、ときには冷徹非情な姿勢や行動をともなう運営が必要となる。
なぜなら大切なものはただひとつ、ビジネスだから。謙虚なプロレタリアートのチームというイメージを守りながら、
これからも勝ち続けることができれば、また一つ、すばらしいおとぎ話が生まれるだろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160518-00000113-sph-socc
だが、私には優勝後のお決まりの儀礼的質問をするつもりはなかった。
たずねたかったのは、日本代表の岡崎慎司選手との関係だった。
奇跡の優勝を飾ったレスターの中で岡崎が果たした貢献は称賛に値すると思うからだ。
そして、もうひとつ、日本についての印象も聞いた。
―岡崎がチームに果たした貢献について。
「岡崎は、最高の選手というだけでなく、人間としても素晴らしい男です。
ロッカールームでいつも見せてくれた彼のあの冷静さには、私たち全員が感謝しなければいけない。
あの向こうっ気の強いアルゼンチン人、ウジョアとの交代を私はたびたび岡崎に告げましたが、
彼はいつでも笑顔で受け入れてくれた。私はこれまで、そんな経験をしたことがなかった。
しかし、常に走り続ける彼のプレーは、チームの勝利への切り札のひとつでした。
もちろん、ニューキャッスル戦で決めた、あのすばらしいオーバーヘッドゴールもそうですが」
―岡崎をご覧になっていて、日本のサッカー選手がヨーロッパのリーグで主役になるため、
準備することやアドバイスはありますか?
「まずアドバイスしておきたいのは、言葉ですね。実際、「オカ」に動きを説明しているとき、
彼は笑って「OK」と言うのですが、実は全然わかっていなくて、その動きを私がやってみせなければならないことが
よくありましたからね。言葉の習得はチームや自分が暮らす町に溶け込むうえでも役立つでしょう。
相手の言うことを理解し、自分の考えを伝えることは、サッカー選手に限らず、
国際的な舞台で活躍する人々のどんな活動においても、その重要性はますます高まっています」
1995年、フィオレンティーナを率いていたラニエリは、清水とG大阪と親善試合をするため来日した。
この試合をコーディネートしたのが私だった。
短い滞在期間だったがラニエリは、日本、そしてJリーグにとても興味を抱いた。
「Jリーグが始まったきっかけは?」「数年間に失敗した北米プロリーグと何が違う」。
そこで、私はラニエリを監督として迎え入れるJリーグのクラブを探したが、結局、彼が日本に来ることはなかった。
―来日翌年の1996年、あなたにとっては幸運なことに、私はあなたを起用するJリーグのチームを
見つけることができなかった。
今から思えば、もし見つけていれば、あなたの素晴らしいキャリアにつけ加えたくなるような経験になったのでは?
「あの頃のことはよく覚えていますが、私はまだ、移住する決意がついていませんでした。
フィオレンティーナはかなり好調でしたし、翌年、コッパ・イタリアでも優勝を果たしました。
さらにいえば、日本のJリーグはまだ今ほど安定しておらず、不安材料はたくさんありました。
けれども最大の理由は、自分はまだイタリアでいい仕事ができるという自信があったからです」
―レスターで書き上げたおとぎ話の後、日本チームの監督に就任する可能性は?
「もう少し、この途方もない勝利の余韻を味わわせてほしいですね。
まだ実感のわかないこの勝利については、あと数週間もしたら、もっと詳しくお話できるでしょう。
日本代表チームの監督ですか? オファーがあれば今度は本気で検討しますが、少なくとも2年は先の話ですね。
まずはチャンピオンズリーグを戦わせて欲しい。それに私もいい年ですから、
介護士を付けてまで日本で監督はしたくはない…。
いや、これは半分冗談ですが、いずれにしても、日本にはワールドカップの常連として
2018年ロシア大会での活躍を祈ります。過去にアジアカップを優勝するなど、
これほど短期間に素晴らしい躍進を遂げた日本サッカーについては、その成長ぶりを讃えたい。本当に素晴らしい」
ラニエリにとっても、レスターにとっても、レスター市にとっても、
ほどなく最も困難な課題が突きつけられることになるだろう。誰もが予想だにしなかったこの飛躍をどう維持していくのか?
スターチームのサッカーには、ときには冷徹非情な姿勢や行動をともなう運営が必要となる。
なぜなら大切なものはただひとつ、ビジネスだから。謙虚なプロレタリアートのチームというイメージを守りながら、
これからも勝ち続けることができれば、また一つ、すばらしいおとぎ話が生まれるだろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160518-00000113-sph-socc
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